なんというか、人類というものは、
永らく眠気と戦ってきたのではないだろうか‥‥。
みたいなことをふと考えたんですが、
これはとんでもない話ですね。
まったくもって誤りでありまして、
こんなことを考えてしまう
自分がどうにかしていると思うわけでして、
はずかしいことこの上なしであります。
(※それぐらい眠かったんだということは、
伏せておく必要がありそうです。)
農耕による安定的な食糧確保が叶うまでの長い間、
人類は、食うか食われるか、生きるか死ぬかの
瀬戸際で戦ってきたわけですから、、たぶん。
「寝る」ことすなわち己の「死」であるというのは、
その当時は言語化できなかったにせよ、
感得されていたのではないかと思うのです。
ただ、あまりにも人類は進歩しすぎた。
食料は確保できるようになったし、
それに伴っていろいろあったと思うのですが、
(※この「いろいろ」としか表現できないあたりに、
自分の歴史認識の浅さがうかがえるのである。)
生きるにあたって、命の問題にかかわってくるようなことってのは、
そんなに、気にしなくてよくなった(と思ってるんですけども)。
とはいえ、地震などの天変地異が起こる可能性はいつでもあるわけですので、
そんなに悠長なことはいってられないのかもしれませんが、
それでもなお、人間はだらけてしまう側面も持っているのですね、、たぶん。
そんな自分を、どんなふうにだまして、
動くように仕向けるかというのは、
普段からいろいろと考えておるわけです。
こんなどうしようもない私だけれども、
なんとか動いてもらいたい‥‥
しかも、なんだかまわりの環境に、
たいそう影響を受けやすいときているもんだ。
ところで、みなさんは、自分の考え方ってのが
どれくらい受け売りなのかとか、
どれだけ影響を受けているのかということを、
振り返ってみたことはありますか。
自分は、そんなにたくさん振り返ったわけではないのですが、
1%くらい自分の考えがあったら十分じゃないかと、
そんなことを思ったりもしています。
まあまあ、自分の考えが、
他人のコラージュであることこの上なしなわけです。
それに気づいたときには、なかなかの絶望感が味わえます。
まぁ、それで良いんだと思うんですけどね。
なるべく、自分の実践に即した考え方が
蓄積されていれば、それはそれで素晴らしいんですけども、
それだけに固執してしまうには、あまりにも時間が無さすぎるわけですし、
このご時世、うまいぐあいに情報をね、自分に取り入れながら、、
それでもやはり、自分の思うことが、他人の考えによるものなのか、
それとも自分の経験なんかから導き出したものかというところについては、
意識的であるほうがいいのではないかなと思っていますし、
少なくとも、自分はなるべくそうありたいなと思っているわけであります。
それこそ、そういった考え方ですら、小林秀雄が言っていることの言い方を
変えただけのような気もするのですね。
本間